佐田の山

佐田の山 は闘志の権化、子供心にも「顔が恐かった」横綱でした





10年前に大相撲のメールマガジンとブログを始めたのは、力士の重量化に伴った淡白な内容の相撲の増加が理由でした。そのときに「昭和の相撲」の代表的な存在として意識していたのが、昭和40年に横綱に昇進した佐田の山です。闘志の権化のような土俵を見せてくれました。

182cm・129kgの体は、当時でも中型。筋肉質の動きやすそうな体型で、激しい突っ張りと右四つからの寄り、投げの正攻法で横綱にまでなり、優勝も6回を数えました。

番付を上げていった時期は、学年で1コ下の柏戸・3コ下の大鵬の柏鵬時代が始まったころ。佐田の山は、自分よりも大型の二人の横綱に闘志を燃やします。

さらに同じ出羽一門で、誕生日が1ヶ月も変わらない栃ノ海との猛稽古は親方衆からストップが掛からないと終わらなかったといいます。入幕は栃ノ海が5場所早く、大関昇進は佐田の山が1場所早く、横綱昇進は栃ノ海が6場所早いという、出世争いのライバル。

さらにさらに、同学年で学生横綱からの鳴り物入りの豊山には、「学生に負けてたまるか」と壮絶な横綱争いレースを競い、火花が散るような突っ張り合い。それは敵意にも似た、殺伐としたものでした。

最初に大相撲を見て、「顔が恐い」と子供心に思ったのが佐田の山でした。「巨人・大鵬・卵焼き」の通り、子供は美男の横綱大鵬にあこがれましたが、その対極とも言える、勝負師の顔をしたのが佐田の山。そして、「昭和の大相撲」を代表するイメージとなりました。

まさに佐田の山の「顔」は、ライバルたちに燃やした激しい闘志で出来上がったのでしょう。ブログで日馬富士(当時の安馬)に、「佐田の山のような闘志ある顔と、相撲内容になれば横綱を目指せる」という記事を書いたのは、ブログを始めた、今から10年前のことです。

実家は大工でしたが、仕事に厳しい大工の棟梁というのも似合いそうだった佐田の山。引退後は理事長としても、恐そうな理事長となりましたが、こちらでは苦戦を強いられました。そのときのNo.2の事業部長が、敵意をむき出しにした相手、豊山でありました。




力士名鑑 : 佐田の山

 

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