霧島 千代の富士

千代の富士の1000勝阻む 霧島 の吊り出しは時代の転換期でした





角界のアラン・ドロン」という呼び名も凄いけれど、霧島はいつ頃からそう呼ばれていたのか・・・、とにかく前頭が長かったわけで、霧島の歴史が時系列では鮮明に思い出せないところです。

先に出世していった年下の横綱・大関、北勝海・旭富士・小錦に周回遅れから追いついた長距離ランナーが、30歳を過ぎてから挑んでいくというドラマ。しかし霧島はその筋肉美で若々しく、北勝海や旭富士の方がベテランに見えました。

霧島 千代の富士

霧島の一番の記憶は、平成2年春場所6日目。このときは凄い歓声でした、千代の富士通算1000勝が掛かった相撲でしたから。とにかく、凄かった・・・。

千代の富士は前年の秋に国民栄誉賞を受賞、明けて初場所は14勝1敗の優勝でついに優勝を30回の大台に乗せ、いよいよ大鵬の優勝32回が射程圏内に入ったところ。そしてこの春場所も初日から5連勝、順風満帆、絶好調、そして千代の富士フィーバー・・・。

このときの霧島は、明らかに筋肉美が目立ち始めた時期でした。ほぼ6年間平幕に甘んじ、三役では大負けしていた霧島。しかしその筋肉は、「もしかすると~」という予感を抱かせるのに充分のものでした。

平成元年九州場所で三役で初めての勝ち越しの10勝5敗、翌初場所は11勝4敗。ここで春場所6日目の千代の富士戦を迎えます。霧島、30歳と11ヶ月の春でした。

ここまで霧島は千代の富士に11戦全敗、相撲は霧島得意の左四つで両廻しを引き付け、千代の富士は上手が取れない状況。それでもそこから千代の富士が上手を引き、「1000勝達成!」・・・という場面を予感する館内とテレビ桟敷。などと思う間もなく、霧島は千代の富士を抜き上げました。

アッ気にとられる大相撲ファンと、千代の富士本人。吊り出されるときの表情が、すべてを物語っていました。まさに、「空気を読まない」 霧島の吊り出しでした。(当時は「空気を読まない」って言葉、あったかなぁ?)

この場所、13勝2敗で優勝決定戦に進出した霧島は、場所後に大関に昇進します。千代の富士中心で回っていた時代が、少しだけ動きました。翌夏場所が、貴花田の新入幕場所です。




力士名鑑 : 霧島

 

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