増位山

増位山 クールな業師は物言いの説明もクールだった





大相撲史上で内掛けの名手といえば、獲物を捕えるかのような内掛けの、「南海の黒ヒョウ」琴ヶ濱がいますが、対照的にケロリとした顔で決めるのが増位山でした。昭和40年代後半から50年代前半、シラケ世代という言葉が流行りました。その代表格が力士でいえば増位山、芸能界では今をときめく水谷豊でした。

鶴ヶ嶺が寺尾と似ていなかったのと同様に、増位山もまた親子でまったく似ていませんでした。初代大関増位山はゴツゴツとしたイメージ、対してシラケ世代の増位山は、闘志があるのか無いのかといった表情。そして、粋な遊び人風の二枚目力士、まさに対照的です。

この増位山、まさか親子二代で大関になるとは、一時期は思いも寄りませんでした。二枚目なうえ、歌手としても有名でしたから。北の富士や琴風も確かに歌手デビューしましたし、大ヒット曲もありますが代表曲は1曲です。増位山は代表曲がミリオンセラーになっただけでなく、ある程度の期間、ある程度の数をリリースした本格的な歌手でした。

それが昭和55年初場所、当時は貴ノ花の一人大関。増位山は31歳で大関に昇進、これは琴光喜に破られるまで、長きにわたって最年長記録でした。幕内通算成績が勝率5割を切っている、たぶん唯一人の大関ですが、それは
本当にワンチャンスを生かした昇進だったことを物語っています。

しかし最近、DVDなどで改めて増位山の相撲を見ていると、意外と力感のある体をしていたことに気付きます。中学時代は父親に入門を断られ、高校時代は水泳で鍛え、断るのなら他の部屋に入門するとおどして?18歳のときに父親の三保ヶ関部屋に入門 します。顔立ちや雰囲気とは違って、中身は根性が座っていたのでしょう。

力士の中で、いやプロスポーツ選手全般の中でも、もっとも本格的な歌手活動をして、もっとも実績を残した存在だと思います。顔の良さと、連発するヒット曲、本当に歌手に転向するのかと思ったほどだった、その右手に握られたマイクはその後、審判部副部長として物言いの協議の結果を美声で伝えることになりました。




力士名鑑 : 増位山(二代目)

 

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