同世代のライバル達がひしめいた北・玉時代。彼らが大関に昇進した頃、さらに次の世代として登場した前の山は、柏・鵬時代のバリバリの若手のホープでした。
大鵬と柏戸はともに大型力士、追う北の富士と玉乃島(後の玉の海)が中型であったため、187cmで130kgの前の山には大きな期待が掛かりました。
筋肉質の見事な体で突っ張りが得意。当時としては珍しく、横綱に対しても思い切り張り手をかましていました。当時は横綱に張り手をしたら、後で挨拶にいく時代。まぁ今は挨拶にいくというよりも、張り手を横綱にはしない時代みたいですけど。
突っ張り合いの後、組み止められても体力と若さで健闘し、前の山の横綱戦はいつも大熱戦。昭和44年春場所の中日、柏戸との水入りの大相撲は敢闘力士のイメージを決定付ける、死力を尽くした展開の大相撲でした。(柏戸の勝ち)
昭和45年の夏・名古屋でそれぞれ12勝・13勝を上げて、ハイレベルの成績で大関に昇進します。優勝争いもハイレベルだった北・玉と大鵬のこの時代、北の富士と玉の海には連敗していますが、他の力士をほとんど圧倒 しての13勝2敗、横綱を狙える大関でした。
しかし北の富士との稽古で右足を骨折して新大関場所を全休、そして全盛期の力を取り戻すことなく在位10場所で大関を陥落します。ちょうど輪島・貴ノ花・三重ノ海・大受といった、さらに若い世代が台頭、大関復帰はかないませんでした。
引退後は一門の先輩である北の富士の九重部屋の近くで高田川部屋を興しますが、理事選クーデターのときに結果的には北の富士を退職に追い込む形となります。しかしその後、「北の富士入門50周年記念興行」 の大成功の影には高田川親方の尽力がありました。
そういえば関脇の玉鷲は、前の山の若手時代に風貌や体型と相撲振りが似ています。もちろん玉鷲よりも、前の山の顔が凄い恐い顔ですが・・・。
「高田川部屋」の竜電が、この先代高田川に顔と体型がそっくりなんですよね。
ぜひ二代目前の山を襲名してほしいのですが、竜電という四股名がカッコよすぎるのでそれはないか。
ただしさんへ
コメント、ありがとうございます。
前の山も覇気溢れる力士でしたね。難しい字が四股名に使われ始めて久しいですが、やさしい字で音の響きも良く、そして記憶にも残る力士の四股名は、もっと継承されるべきだと思います。私は「柏戸」や「琴櫻」も復活してほしい四股名と思っていますが、なかなか相応しい力士が現れませんね。