双葉山

双葉山 は大相撲の神髄、それ以上は語れません





双葉山について書きます。というよりも、双葉山を通じて大相撲について書こうと思います。それが双葉山のコラムを書く、ベストの方法だと思うからです。

外国人が大相撲を見て、不思議に感じることが二つあるといいます。一つは立合いです。ほとんどすべての格闘技が審判の合図によって始まるのに、大相撲は両者の呼吸が合ったところで始まります。行司は、立合いが成立したことを力士に告げるだけです。

アマ相撲ではこの立合いだと外国人が理解しにくく、海外に普及できないので審判が開始の合図をするらしいですね。両者の呼吸で始まるなら自分有利なことも出来るだろうと、外国の方は考えるでしょう。もちろん力士にとって立合いは大切で、自分有利になるように呼吸を図ります。

しかし立合いの駆け引きの中で、守られているものがあると思います。それは一言で言えば、「美しさ」です。先日のブログで書いた、「大相撲は勝つことがすべてではない、その勝つことがすべてではない世界の中で、それでも勝つことを目指すから力士は美しく、そして大相撲も美しいのです」ということです。

外国人が理解しにくいことのもう一つが、なぜ勝ったときに喜ばないのかという点です。この「喜ばない」ということが「美しさ」につながることは、日本人としては理解しやすいことでしょう。そして「美しさ」というものが、大相撲の根底にあるのではないかと考えています。

ここで双葉山の話です。双葉山は土俵上で美しかったことが有名です。そんきょをして礼をするときの美しさ、手を打って広げるときの美しさ、立合いから立ち上がっての相撲の美しさ、そして最後に一礼するときの美しさ。

70連勝ならずのときも、いつもとまったく変わらない堂々とした美しい礼をして土俵を下がったと言われています。勝ったときに喜ばないこと以上に、思わぬ敗戦のときも変わらぬ表情と態度で美しい所作ができる、これが大相撲の神髄だと思います。

ここ数年、土俵際のダメ押しについての文章を目にします。元来、ダメ押しは奨励される模範的な行為でした。相手が土俵を割ってもしっかりと腰をおろす、本来のダメ押しとはそういうものでした。しかし土俵を割って力を抜いている相手に攻撃を加えれば、これはケガの原因となります。

範とすべきダメ押しと、やってはいけないダメ押しのその判断基準が「美しさ」であり、その「美しさ」を理解し守ろうとすることが大相撲の根底に流れているものです。

立合いの変化も同様なことがいえると思います。立合いの変化すべてが悪いという風潮は、絶対にあってはならないことです。その判断基準も、「美しさ」です。まったく当たりもしないで変化する力士には美しさは感じませんが、何も考えずに当たりにいってアッサリと前に落ちる力士も美しくありません。

その美しさを判断する感性が大相撲の根底を支えているものであり、それは守るべきものであり、そしてそれを見事に体現した力士が双葉山であり、そこに大相撲の神髄があると言えるでしょう。




力士名鑑 : 双葉山

 

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