佐田の山は、闘魂の横綱と呼ばれました。それは柏鵬時代に全盛期の大鵬・柏戸に挑んだということからですが、大型の両横綱に、それも真っ向勝負で挑んだからでした。
相撲も正面から、写真のように柏戸も吊り出しで決めています。もちろん体のハンディをカバーするため、立合いから猛然と突っ張り、そこから四つを組にいくスタイルでした。その激しい突っ張りと堂々と吊り出す姿が、「闘魂の横綱」と呼ばれた理由でした。
昭和42年、千代の山の九重親方が出羽海部屋から独立する話が出たとき、横綱の佐田の山と大関の北の富士の取組が話題となりました。
当時の出羽海部屋は、部屋の年寄は結集して部屋を盛り立てることという不文律があり、名横綱の栃木山が起こした春日野部屋は特例として、他の独立は認められていませんでした。
そのうえ北の富士を含めて10人の力士を引き連れて独立したいという九重親方の申し出を、出羽海親方は了承します。これは娘婿の佐田の山の部屋の継承がスムーズになるということ以上に、佐田の山と北の富士の取組が生まれることによる大相撲人気への好影響を期待したことも大きかったのです。
独立直後の昭和42年春場所、北の富士は大鵬と並んで14日目まで1敗を守り、佐田の山との初対決を迎えました。ただでさえ期待の黄金カードが、北の富士の初優勝が掛かる一番で組まれたのでした。
佐田の山は29歳、北の富士は大関昇進して4場所目の25歳。九重部屋が出羽海一門を破門という形での独立だったこともあって、もの凄い盛り上がりでした。判官びいき、というのもあったと思います。
このときの熱気は、テレビで見ていても異常なものでした。相撲は物言いついて、取り直しのすえ北の富士が寄り切りで勝ち、初優勝に大きく前進しました。
1年後の昭和43年春場所、連続優勝をして3連覇を狙った佐田の山は場所前半に突如引退を発表します。連続優勝した翌場所なだけに唐突な印象でしたが佐田の山は、「私のようなタイプは、気力が無くなったら勝てないんです」と述懐しています。
以前に3場所連続休場をして、そのときは立ち直れたが今回は無理だと。それだけ気力で立ち向かっていた、だからこそ柏鵬全盛時代に、6回も優勝できたのです。
佐田の山をブログに書くとき、「子供のころ、いつも怒っているようで、顔が恐いと思って見ていた佐田の山」という文章をよく使いました。日馬富士が安馬時代に、横綱まで狙いたいなら佐田の山のような相撲をとることだ、と書いたこともありました。
そして、「もっとも昭和の匂いのする相撲とは、佐田の山のような相撲だ」と書いたのが一番、佐田の山を言い得ていたと自負しています。
もっとも昭和の匂いがする力士、佐田の山晋松。市川晋松さんの、ご冥福をお祈りいたします。