長谷川 と 北の富士 幕下時代は長谷川が貫録あった?





長谷川(中央)と北の富士(右)

写真は北の富士長谷川の、幕下時代のものです。長谷川は早い時期から、北の富士のライバルでした。

学年でいえば、長谷川は北の富士よりも3つ年下。 初土俵も長谷川が3年以上も遅いのですが、北の富士より1場所早く、18歳で関取になっています。

幕下時代の2人の写真を見ると、長谷川の方に貫禄があるように感じるのは私だけでしょうか。

長谷川は極めつけの有望力士でした。兄弟子琴桜との稽古で足首を骨折して一度幕下に落ちたため入幕は遅くなりましたが、それでも20歳で新入幕を果たします。

対して、北の富士は序二段・三段目が長く、年下の長谷川になかなか勝てず、新十両直前2場所でやっと勝てます。入門時から期待されていた長谷川に対し、なかなか太れなかった北の富士。

長谷川は新入幕から5場所連続勝ち越しで小結へ、このときすでに大関候補と呼ばれています。左四つからの力強い相撲を取りました。

184cm、127kgの体は、大関昇進当時の北の富士とほぼ同じ大きさ。スピードの北の富士に対して、組み止めての長谷川。

北の富士と長谷川の対戦成績は北の富士の30勝16敗と、2倍近い差が ついています。しかし何故か、北の富士は長谷川を苦手にしていた記憶が あるのです。

北の富士は昭和42年春場所に初優勝、昭和44年秋場所から準優勝・優勝・優勝を続け横綱に昇進しますが、その間の期間、つまり昭和42年夏から昭和44年名古屋までの間は低迷しています。

この14場所の通算での勝ち星は126個、一場所平均で9,0勝ちょうどという文字通りのクンロク大関でした。この14場所に限れば、2人の対戦成績は長谷川の8勝6敗、長谷川が勝ち越しています。

がっぷり四つになれば長谷川の相撲で、北の富士が軽く見え、どっちが大関か分からないような感じでした。当時横綱を期待されていた北の富士の低迷振りを強く印象付ける取組が、北の富士対長谷川だったのです。この期間が、北の富士は長谷川が苦手という記憶になっているのでしょう。

北の富士が130kgを超え、突っ張りや出足の威力が増すと長谷川は勝てなくなりました。長谷川に最も勢いがあったのは、新関脇から連続7場所勝ち越した昭和45年。

次の8場所目は昭和45年春場所、新横綱の北の富士・玉の海と王者大鵬、3人の成績の合計が、何と40勝5敗だった場所です。長谷川の全盛期は、横綱がもっとも充実していた時期に重なります。

大鵬14勝1敗・北の富士13勝2敗・玉の海13勝2敗。3人の横綱リーグ以外で、つまり3人合計でたったの2敗しかしなかったわけです。その2個の黒星のうち、1個は長谷川が大鵬から上げたものでした。それでも長谷川は負け越します。

この場所から始まる濃密な北・玉時代に、長谷川はなかなか勝ち越せなくなります。そして北・玉時代終焉後の昭和47年春場所、前場所に関脇で準優勝の長谷川は初優勝を果たします。

関脇を6場所連続で在位し、準優勝と優勝を続けました。この成績で大関を見送られてしまった長谷川に2度とチャンスは来ませんでした。

このとき長谷川27歳。翌場所の昭和47年夏場所の大関挑戦は8勝で終わり、入れ替わるように輪島がこの場所、関脇で12勝3敗の優勝。貴ノ花も小結で11勝4敗。3場所後に2人は大関に同時昇進します。

北玉と貴輪の時代に挟まれ、これ以上ない悪いタイミングで大関を逃します。

その左四つの力感溢れる相撲、特に掬い投げや巻き落としなど、差し手からの技は堂々としたものでした。やはり、大相撲史に残る最強関脇です。




力士名鑑長谷川

 

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