玉の海 不知火型土俵入り

実現しなかった、もう一つの北玉対決~ 玉の海 と 北の湖 、最強の力士





実現しなかった幻の対決ということで、以前に29歳の双羽黒と23歳のの2m対決を書きました。しかし相撲内容への興味と、そのレベルの高さという点で、もっとも幻の対決といえるのは玉の海北の湖でしょう。

先日の「最強の力士~玉の海」のページで、玉の海の全盛期の成績がいかに凄まじいものだったか分かると思います。連続6場所で金星はおろか、関脇以下に一度も負けていないのですから。この隠れた記録は、まだどの大横綱も達成していません。

そして北の湖も「最強の力士~北の湖」で、その実力を再確認した思いです。得てして北の湖の全盛期は、ライバルが弱かった記憶がある人がいるようです。しかし、もっとも強かった期間において、その6場所すべての準優勝者が13勝を超えています。(北の湖も準優勝を一回)

玉の海も北の湖も、通算記録では分からない強さがありました。玉の海は最強の力士を語るとき、その四股名が登場することはまずありません。そして北の湖も、一般的な認識として大鵬や千代の富士の後塵を拝しているように感じます。

さて両雄の対決ですが、北の湖が最年少記録の21歳で横綱に昇進した時、玉の海が存命ならば30歳、まさに円熟期だったでしょう。玉の海は177㎝で134kg、北の湖は179㎝で横綱昇進時は、まだ150kgを超えたぐらいだったでしょう。

玉の海は右四つですが、がっぷりならば左四つでも充分。北の湖は巻き替えが巧く、やはり左四つがっぷりの展開になったと思います。両廻しも引き合って。この玉の海の相手は、もちろん北の富士です。

玉の海 北の富士 横綱昇進

北の湖はケガの功名で、一気に寄る相撲で大関から横綱に駆け上がりました。しかし、それは玉の海には通用しなかったはずです。玉の海の反り腰、残り腰は天下一品でした。

玉の海は腰で吊る、吊り出しを得意としていたように、腰で相撲をとった力士でした。北の湖の師匠、三保ヶ関の増位山は双葉山に心酔し、北の湖も腰で相撲をとるように指導されました。双葉山の再来と呼ばれた玉の海と、双葉山でつながっていた北の湖。

肩幅広く、柔らかく強靭な足腰の玉の海。なで肩、胴長で柔らかく強い筋肉の北の湖。微妙に違えど、最高の力士体型でした。玉の海は胸の合わせ方が天下一品、これは肩幅の広さも関係しています。北の湖は巻き替えと上手を切る技術が最高、これはなで肩と胴長が関係していたでしょう。

30歳の玉の海と21歳の北の湖のがっぷり四つは、まだ玉の海に分があったでしょう。そこから2年から3年で、徐々に北の湖が追いつくという理想の覇者交代が見られたかもしれません。

実際のところはこの前の年、昭和48年は輪島の最初のピークの年。そして昭和50年は、貴ノ花が2回の優勝を果たした年。玉の海が存命ならば激しい競い合いが予測され、面白い優勝争いだったでしょう。

そして最後に一つ言えることは、左四つ半身で相撲をとった輪島に対応した北の湖、常にがっぷりで相撲をとった玉の海との対戦が数年でも実現していれば、北の湖の相撲の幅はもっと広がっていたはずです。

大相撲力士名鑑 : 玉の海 北の湖

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砂かぶりの夜

2件のコメント

  1. 北の湖はパワーファイターというイメージが強いが、実はテクニシャンタイプだったと思う。
    まわしを切る・巻き替えの技術はズバ抜けていた。
    右四つ得意の玉の海が左四つでも取れたように、左四つ得意の北の湖も右四つでも取れたと記憶している。
    素人には展開が予想できない、最高級の相撲を見ることができたはずだ。「相撲名人戦」とでも言おうか。
    たぶん9歳年下の北の湖が徐々に対戦成績を有利にしていくだろうが、短期間でも名勝負・好勝負が見たかったとしみじみ思う。

  2. shin2さんへ
    コメント、ありがとうございます。
    肩幅広く、柔らかく強靭な足腰の玉の海。なで肩、胴長で柔らかく強い筋肉の北の湖。微妙に違えど、最高の力士体型でした。玉の海は胸の合わせ方が天下一品、北の湖は巻き替えと上手を切る技術が最高。その相撲の展開を数行でも書いてみようと思いましたが、想像した白熱の相撲を私の筆が追いつけず、書けませんでした。見てみたかったと、今でも思います。

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