栃東 上手出し投げ

栃東 (初代)キレキレの切れ味の上手出し投げでした





名人横綱栃錦の春日野部屋出身、昭和42年春場所に新入幕。前年の九州 場所に引退した小兵横綱栃ノ海と入れ替わるような入幕でした。栃ノ海と栃東は身長・体重がほぼ同じ。

いくら昭和40年代とはいえ、110kgそこそこで大関以上になるのは極めて珍しいことでしたが、横綱栃錦・栃ノ海と続く春日野部屋伝統の業師の継承者としての期待が掛かりました。

当時は北の富士・玉乃島(後の玉の海)・琴桜が大関に昇進したばかり。次の大関を狙って、清國・大麒麟・長谷川、そして若手の前の山が競いあっていました。

栃東といえば、殊勲賞・技能賞のダブル受賞4回という記録が有名です。この4回は、昭和43年夏場所から記録され、栃東は一気に大関候補に名乗りを上げます。当時栃東23歳、技の切れ味も増してきて、大関先陣争いに加わる勢いでした。

前さばきが巧く、左四つに組んだときの右前ミツの取り方とアゴを引く型が素晴らしく、アゴを締めたまま、そこから繰り出される上手出し投げの切れ味は、その後並ぶ者無し、と言ってもいいでしょう。

栃東の出し投げは、崩してから攻めるのではなく、決める技でした。投げられた相手は、不格好に足をバタつかせながら転がりました。相手が土俵にはうまで、栃東のアゴは締めたままでした。この頃の栃東の技の冴えは、小兵横綱栃ノ海を超えるのではないかとさえ思わせました。

大関を期待され、その足掛かりをつかみかけた矢先、病魔に襲われます。昭和45年夏場所に全休。まだ25歳の時。しかし、以後体調が戻るまでに時間が掛かり、やがてヒザも痛め、全盛期の勢いは取り戻せませんでした。栃東の殊勲・技能ダブル受賞の4回目は昭和45年初場所、北の富士と玉の海の綱取りの場所でした。

つまり残念ながら全盛期は柏鵬時代で、栃東本来の相撲は北玉時代には見られなかったということです。

それでも、乱戦だった昭和47年初場所、11勝4敗で優勝します。千秋楽に大関清国を破り、大関琴桜・関脇長谷川に1差をつけて。病気になる前の若手時代の大関レース、そのかつてのライバル達を抑えての優勝でした。

栃東 上手出し投げ

上手出し投げだけでなく正攻法の速攻も素晴らしく、昭和43年秋場所初日、5場所連続休場で進退がかかった大鵬を立合いから一方的に寄り切った相撲は、ついに大横綱大鵬もこれまでか、と思わせるほどの鮮烈な寄り身でした。

本当に「これで大鵬も終わりか」と思ったぐらい、栃東の寄り身の切れ味は素晴らしいものでした。子ども心にも「大鵬が引退かも」と思った、そんな記憶があります。

大鵬の45連勝がスタートするのは、その翌日からです。




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