ちょうど10年前、大相撲史上で最も悲しい事件が起きたとき、「朝まで生テレビ」に出演した龍虎さんが「力士のオデコは、ビール瓶で殴られたぐらいじゃ何ともない」と言って、場を凍りつかせたことがありました。
「ビール瓶で殴られても何ともない」と「ビール瓶で殴っても良い」の間には、いつまでも交わらない距離があります。あるはずです。しかしその時の龍虎さんの語り口には、「そんなこと日常茶飯事」という匂いがありました。
ボクシングでバッティングは流血の原因、プロレスでの頭突きはフィニッシュホールドにもなります。頭での立合いでオデコを鍛えることに特化した力士の、打たれ強だに対する変な意識と感覚があると感じました。
龍虎さんを悪く言う意味でなく、その前時代的な意識と感覚がかつて存在し、それが今も根強く潜在的にでも残っている部分はあるのではないか。もしそうならば、日馬富士だけの問題ではありません。違うと言われても、世間はそうは見ません。
いきなり話は変わります。少し混乱ですが・・・。「私はチョンマゲをつけているから、皆から立てられます。しかし土俵の外では、30歳の西森という青二才です」と語って引退したのは、魁傑の放駒親方でした。
現役時代は女子高生に人気のあった真面目さと優しさ、しかし社会人となった放駒親方は、部屋の師匠として、審判部長として、理事長として、それはそれは厳しい人でした。
チョンマゲをつけているから周囲から尊重されると自覚し、自分を律することが出来る、こんな魁傑のような考え方が大切です。力士はチヤホヤされる、そういう存在です。番付がどうの、年齢がどうのといっても、関係ありません。
今のように部屋が増えていて、どこまでの指導が出来るのか? 昔は部屋付きの親方多く、目を光らせていた印象があります。これだけ部屋が出来たのは、部屋持ちと部屋付きの親方の待遇が違い過ぎるのでは、と感じます。よく知らないけど。
プロ野球では驚くほどの人数のコーチがいて、そしてコーチも地位が明確です。部屋付きの親方の権限と責任、扱われ方などを明確にすべきです。内情を知らないで言うのも何ですが、じゃないと今みたいに部屋は増えていないでしょう。
もう一つ、プロ野球には選手時代にまったく実績を残せなかった名監督、という人もいました。阪急の上田監督のように。技術を教える能力と、選手を指導する能力に長けた無名選手の名監督。選手は皆、ビビるような。
大相撲ファンの中には「師匠の番付を弟子が超えたら、指導が難しいのでは」という考えの人もいて、しかし実際に親方でも「自分の番付を超えても、○○は謙虚だ」みたいな言い方をする場合も見受けられ、大相撲における番付の意味合いも考えさせられます。
とは言え私自身、まだショックで混乱もしております。何を書くべきかが、整理がつかない部分もあります。あまり書き過ぎると、脈絡が無くなる恐れもあります。すでに、そうなっているかも。
当然日馬富士には、しかるべき責は負うべきです。ただ日馬富士個人の問題で終わっていいのか、と思います。相撲協会の運営、部屋の運営、その他様々な大相撲における慣習や価値観、大切な部分と変えるべき部分を、改めて見つめる必要があると、これだけはハッキリと書いておきます。
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