玉の海

がっぷり四つの美しさ、 玉の海 と ボクサー大場政夫 がいた時代

入門当時の玉の海は176cm・73kg、写真は序二段優勝時のものですが、隣の序ノ口優勝の「怪童」義ノ花と比較すると分かりやすいですね。この時でも体重は、80kg前後でしょう。

玉の海

玉の海は入幕してからも、まだ100kgに満たない体でした。それでも四つ身になって相手に胸を合わせにいく、歯切れの良い、颯爽とした相撲をとりました。写真は幕内での、北の富士との初対戦です。

北の富士の得意の左四つ、下手を引いて右は北の富士の差し手を抱えて、玉の海は下手廻し一本で北の富士を目よりも高く吊り上げています。上手を引いていない、つまり「腰で吊る」吊り出しを、すでに入幕してすぐのころから出来ていたのです。

玉の海 北の富士

玉錦の個性伸長主義の衣鉢を継ぐ片男波親方に、のびのびと育てられた玉の海。ぶちかます立合いや頭をつける相撲などは一切ありません。ただただ、がっぷり四つを望みました。

当時、玉の海と同い年で若見山という力士がいました。玉の海同様に若くして期待された力士ですが、相撲は右四つ、体重は180kg近くありました。この若見山と、がっぷりにわたり合い、水入りの大相撲をとったことがありました。

評論家もあきれる相撲でしたが、玉の海は疲れてしまった若見山を寄り切って勝ちます。玉の海は肩幅が広く、重心が低く、足腰が柔らかく強靭なため、双葉山の再来と呼ばれる本格派の四つ相撲をとりました。

それだけでなく、軽量だった若い頃から何度も何度も、がっぷり四つで大きな力士に挑んだことで、玉の海の四つ相撲は完成した(正確には、完成一歩手前というべきですが)と思います。

アゴの使い方や胸の合わせ方の巧さで、抜群の四つ具合。対戦相手は北の富士、ここから廻しを引いて、吊り気味に寄り切りました。(昭和43年5月)

玉の海 北の富士 がっぷり四つ

下手は深く上手は浅くという言葉がありますが、玉の海は「脇ミツ」を引きました。そして一枚廻しでも問題にしませんでした。腕力で引き付けるのではなく、腰で相撲をとっていたからです。左四つのときは、逆足になることが多い玉の海でした。

これは北の富士と横綱同時昇進を決めた場所の本割、玉の海が吊り出しで北の富士を破りました。脇ミツを引いて、アゴを相手の肩に埋めた、美しい四つ身です。(昭和45年1月)

玉の海 北の富士 横綱昇進

昭和46年初場所、大鵬に本割・決定戦に敗れて逆転優勝を許し、「何の、これしき」と語った玉の海。その日の深夜、神宮外苑を走る玉の海が貴ノ花に目撃されていました。ちなみに普段着のジャージ、稽古にランニングを取り入れたのも玉の海と言われています。

玉の海 ジャージ

そして翌場所、大鵬に雪辱を果たします。天下一品と謳われた、がっぷりの右四つです。玉の海は身長177㎝、対する大鵬は187㎝。右四つで右足を前に出す四つで、それでも大鵬に上手を与えない、玉の海の胸の合わせ方の妙です。このあと真っ向から、寄り切りました。(昭和46年3月)

玉の海 大鵬

玉の海と大場政夫は、まさに同時代の王者でした。昭和45年春場所に新横綱として登場した玉の海。大場政夫は昭和45年10月22日に世界フライ級タイトルを獲得。ある時代の、二人は象徴的なスターでした。大場政夫も、美しい連打と美しいKOシーンを私たちに見せてくれました。

玉の海 大場政夫

二人の王者は、貧しさの中で育ったことと、親のために家を建てるのが目標という二点で共通していました。それは戦後の日本が高度経済成長で貧しさから脱出し、成功する物語そのものでした。

玉の海の死を知らせたNHKの7時のニュースと、大場政夫の死が載っていた朝刊の記事。それを見た時の記憶は、いまだにストップモーションになって残っています。

高度経済成長期の日本がそのピークを過ぎようとしていた時、二人の王者は相次いで突然、消えていなくなってしまいます。美しい相撲をとった玉の海と、美しいボクシングを見せた大場政夫。そして二人の物語は・・・神話になりました。

▼コラム
玉の海 腰で吊る吊り出し
近年では減ってしまった決まり手の代表的存在、吊り出し。
吊り出しには2種類ある、と言って良いかと思います。一つは腕力と背筋力で抜き上げるような吊り、把瑠都なんかがそうでしたね。もう一つが「腰で吊る」吊り出しです。
柔らかな下半身に、相手の重心を乗せて吊ってしまいます。だから吊られた力士は、キレイに体が浮き上がるのです。吊られた力士の足が、吊った力士の腰を支点に後方にバタつきますので、足が高く上がり美しく決まります。当然ながら、外掛けなどで防ぐことなどできません。玉の海の吊り出しは、その「腰で吊る」吊り出しでした。

玉の海は重心が低く、足腰が柔軟で強靭というだけでなく、四つ身が美しい力士でした。四つ身になったときの胸の合わせ方が絶品で、相手の脇ミツのあたりを引き付けた四つ身は、ほれぼれするほどの美しさでした。胸の合わせ方が巧く、重心が低く、そのうえ広い肩幅。玉の海とがっぷりになっただけで、相手の重心は浮きました。強靭な足腰で、寄りながら一気に抜き上げます。

当時の幕内最長身力士、192cmの高見山を吊りあげた相撲が、特に印象に残ります。身長で15cm、体重でも40kgぐらいの差があったでしょう。さらに高見山は足が長い力士なので、玉の海に吊られた高見山の足のカカトが、それこそ目よりも高く吊り上げられたのです。

実現しなかった、もう一つの北玉対決~ 玉の海 と 北の湖
先日の「最強の力士~玉の海」のページで、玉の海の全盛期の成績がいかに凄まじいものだったか分かると思います。連続6場所で金星はおろか、関脇以下に一度も負けていないのですから。この隠れた記録は、まだどの大横綱も達成していません。

そして北の湖も「最強の力士~北の湖」で、その実力を再確認した思いです。得てして北の湖の全盛期は、ライバルが弱かった記憶がある人がいるようです。しかし、もっとも強かった期間において、その6場所すべての準優勝者が13勝を超えています。(北の湖も準優勝を一回)

玉の海も北の湖も、通算記録では分からない強さがありました。玉の海は最強の力士を語るとき、その四股名が登場することはまずありません。そして北の湖も、一般的な認識として大鵬や千代の富士の後塵を拝しているように感じます。

さて両雄の対決ですが、北の湖が最年少記録の21歳で横綱に昇進した時、玉の海が存命ならば30歳、まさに円熟期だったでしょう。玉の海は177㎝で134kg、北の湖は179㎝で横綱昇進時は、まだ150kgを超えたぐらいだったでしょう。

玉の海は右四つですが、がっぷりならば左四つでも充分。北の湖は巻き替えが巧く、やはり左四つがっぷりの展開になったと思います。

玉の海は腰で吊る、吊り出しを得意としていたように、腰で相撲をとった力士でした。北の湖の師匠、三保ヶ関の増位山は双葉山に心酔し、北の湖も腰で相撲をとるように指導されました。双葉山の再来と呼ばれた玉の海と、双葉山でつながっていた北の湖。

肩幅広く、柔らかく強靭な足腰の玉の海。なで肩、胴長で柔らかく強い筋肉の北の湖。微妙に違えど、最高の力士体型でした。玉の海は胸の合わせ方が天下一品、これは肩幅の広さも関係しています。北の湖は巻き替えと上手を切る技術が最高、これはなで肩と胴長が関係していたでしょう。

30歳の玉の海と21歳の北の湖のがっぷり四つは、まだ玉の海に分があったでしょう。そこから2年から3年で、徐々に北の湖が追いつくという理想の覇者交代が見られたかもしれません。

実際のところはこの前の年、昭和48年は輪島の最初のピークの年。そして昭和50年は、貴ノ花が2回の優勝を果たした年。玉の海が存命ならば激しい競い合いが予測され、面白い優勝争いだったでしょう。

そして最後に一つ言えることは、左四つ半身で相撲をとった輪島に対応した北の湖、常にがっぷりで相撲をとった玉の海との対戦が数年でも実現していれば、北の湖の相撲の幅はもっと広がっていたはずです。

紺野美沙子も興奮していた令和元年AI場所の玉の海、AIの相撲を見る目が成長すれば取口はまだまだ変わるかも
夢の大相撲AI場所のお話。私と同学年の紺野美沙子が興奮していたように、やはり玉の海の取組が一番期待された。

ブログを始めたころに「幻に終わった北玉対決」というタイトルで、玉の海と北の湖の仮想対決のコラムを書いたことがあった。脇は北の湖が堅いから左四つになるだろうが、それでも玉の海に分があっただろう、といった内容で書いた記憶がある。

結果は北の湖に両差しを許しながら、玉の海が上手投げを決めた。玉の海は寄り切りと吊り出しのイメージが強いが、確かに「AI場所」のような上手投げもあった、この番組で思い出したという感じ。当時の映像は少ないから、「思い出した、ありがとう」とAIにお礼を言った。(実際には言ってないが)

玉の海が両差しを許した場面はリアルには貴ノ花戦が映像で残っていて、廻しも引かずに吊り出してしまったわけで、だからありそうな展開だったし、説得力のある玉の海VS北の湖だった。

そして曙戦には敗れるのだが、高見山を目よりも高く吊り出した玉の海でも、曙はそれでも高見山より一回り大きいので、吊るのは厳しいというAIの判断だったのか。そこは私も無理は言えない。

しかし、一つだけ書いておきたいのは、玉の海が大鵬や貴乃花、白鵬といった四つ相撲の横綱と比べて特筆すべきは、胸の合わせ方。あの肩幅で、腰を割って、アゴを引いて、脇ミツを引き付けると相手の上体は浮き上がった。

曙にも、吊るのは厳しくても、四つ相撲の展開は少し違っても、とは思った。「胸の合わせ方」なんてのは分かりにくい技術だから、現存の映像でAIに理解してもらうのには限界があるかも。

まぁ、とは言っても、曙は直接対決では貴乃花と互角だった横綱。結果には納得しよう。それよりも、シルエットや取り口が結構似ていて、それは良かった。

玉の海 の不知火型土俵入りと小坂秀二氏と北出アナウンサー
元アナウンサーで作家の小坂秀二氏(同期はナント、あの北出アナウンサーです)が、あるとき玉の海からこう問われます。「自分の土俵入りで、気が付いたことがあったら言ってくれ」と。

「天下の横綱が、一介の相撲ファンにこういう態度をとるとは」と戸惑い、恐縮して答えなかったものの、再度玉の海に「長年、いろいろな横綱の土俵入りを見てきた目から是非」と求められます。

そこまで言われればと、「せり上がりのスタートの手の位置は、下段の構えだから低すぎる。少なくともヒザよりも上からせり上がるべき」と答えたそうです。ちなみに白鵬や日馬富士は手の位置が低過ぎ、背筋も真っすぐではない。(日馬富士は過去形だが・・・)

玉の海はその日の土俵入りから、そのアドバイスを実行します。その謙虚さとともに、良しと思えば即日実行できる運動神経に感嘆した、という小坂氏のお話でした。

小坂氏も、そして玉の海も、互いに謙虚であるという点で共通しています。ワイドショーなどでベテラン相撲記者や元アナウンサーの発言を聞いていると、この謙虚さが欠けていると思ってしまいます。テレビでの発言は、多少の受け狙いで強めの言い方をしているのかもしれないが。

ところで前述の北出清五郎アナウンサー、私にとっては今でも一番です。柏鵬時代・北玉時代の名調子はもちろんですが、札幌冬季オリンピックの日の丸飛行隊の金・銀・銅を独占した実況、「飛んだ、決まった」も素晴らしかった。

受け狙いというと言葉が悪い、気の利いた表現と言えば良いか。そういう実況よりもストレートでシンプルな「飛んだ、決まった」の感動は大きかった。個人的には「栄光への架け橋だ」的な名台詞よりも感動する、あくまでも個人的には。

大相撲では北の富士と玉の海(当時玉乃島)の横綱昇進を懸けた千秋楽、本割で玉の海が勝ち、優勝決定戦では北の富士が勝って優勝が決まった瞬間、「続けて2番は勝てません、両者の実力は互角」と北出アナ。

このストレートでシンプルなアナウンス、しかし前場所に10勝5敗だった玉の海の横綱昇進を大きく後押しした実況だったことは言うまでもありませんでした。

大相撲力士名鑑 : 玉の海




砂かぶりの夜