栃ノ海

小兵で技巧派横綱、栃ノ海 は佐田の山もひるんだ気性の激しさだった





第49代横綱栃ノ海、177cm・110kg、昭和39年春場所に横綱昇進。ぎりぎり昭和30年代とはいえ、時は大鵬・柏戸の大型横綱による新時代をむかえ、栃ノ海は充分に小さい横綱でした。前ミツを引いての、スピード豊かな速攻が冴えた名力士です。

佐田の山のコラムで書いたように、栃ノ海と佐田の山は誕生日が1ヶ月も変わらず、入幕は栃ノ海が5場所早く、大関は佐田の山が1場所早く、横綱は栃ノ海が6場所早いというライバル。出羽一門での栃光を含めた猛稽古は、ストップを掛けられるまで続いたといいます。

栃ノ海は相撲の巧さは栃錦を上回るとさえ呼ばれた技巧派、童顔で目はパッチリ、いつも相手を睨んでいるように見える佐田の山とは、対照的な印象だったと、5歳の頃の私は感じました。

その佐田の山が、栃ノ海との長年の稽古を振り返った言葉が、「あれほどの気性は、私は持ってないですもんねえ」だった。申し合いで負けると、「クソ~」「この野郎」、と凄い剣幕で向かってくる栃ノ海。

闘志の権化のような佐田の山をもって、ひるませた栃ノ海の気性の激しさ。栃ノ海・栃光と佐田の山の、その激しい稽古の中から二人の横綱と一人の大関が輩出されます。

昭和40年初場所の部屋別総当り制の実施により、横綱栃ノ海ー大関佐田の山の対戦が実現、佐田の山が勝ち、この場所も優勝。場所後に横綱に昇進します。この一番、アナウンサーの「友情を感じさせる、爽やかな勝負」といったコメントを聞くと、部屋別総当り制導入当時の大相撲における一門の存在感や意味合いを改めて感じさせます。

ところで、相撲の巧さでは栃錦を上回る技巧派といわれた栃ノ海でしたが、栃ノ海で特筆すべきは立合いの鋭さでした。バチン!、と音がするほどの立合い。技巧派というだけでは、飛び切りの小兵力士が綱は張れません。

鋭い立合い、前ミツを引いての速攻、激しい気性。すべてが揃ってこそ、小兵横綱栃ノ海が生まれました。ケガのために若くして引退、「花の命は短くて」と、大相撲ファンは残念がりました。栃ノ海の本名が花田だったからでしょう。




力士名鑑 : 栃ノ海

 

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