廣川

「相撲人形」、廣川 を応援することから大相撲観戦が始まりました





大相撲に興味を持ち始めた頃、一番のご贔屓力士が廣川でした。最初に応援した力士というのは、いつまで経っても印象に残るものです。

白黒テレビに映し出される色白の廣川は眉と目元がくっきりとした切れ長で、おちょぼ口の、いかにも「お相撲さん」 といった風情でした。

相撲振りは、徹底的な押し相撲。激しさという部分では、その10年後に登場した「突貫小僧」の 富士桜ほどのインパクトはありませんでしたが、その押し相撲には、何か感じるものがありました。

それが何かは、当時3~4歳でしたので分かりませんが、激しいという感じではなかった分だけ、よけいに応援したいという気持ちが高まったのかもしれません。

小気味の良い突き押しでしたが体格には恵まれず、相手を圧倒するまでの破壊力とは言えず、差して寄るパターンもあったような記憶が薄っすらと。

8勝7敗・7勝8敗が多い力士でもあり、応援する方は気が気でない、という想いで見ていたと思います。昭和39年夏場所に1度だけ小結に昇進していますが、残念ながらその場所の記憶は鮮明ではありません。3歳の終わり頃の出来事ですね。私の最初鮮明な記憶は、同年10月の東京オリンピック開会式です。

もう1度小結になってほしいと願いながらも、昭和43年春場所後に廣川は十両へ陥落します。十両はテレビ中継が無いため、中継が始まると電光掲示板の廣川の四股名の灯りが点いているのかどうかを、テレビ中継が始まるとすぐに確認していました。

それから5場所後、昭和44年初場所で廣川は引退します。当時、私は小学校2年生ながら、一種の空虚感を抱きました。もっとも熱中した北・玉時代が実質的にスタートしたのは、この年の秋場所からです。

北の富士の上手投げ、玉の海の吊り出しの美しさとともに、相撲人形のようだと形容された廣川の土俵上の一つ一つの所作もまた、美しいものでした。

引退後は宮城野部屋を継承しましたが、平成元年に52歳の若さで亡くなります。もし存命だったなら、横綱白鵬入門時の、最初の師匠となっていたわけですが・・・。




力士名鑑 : 廣川

砂かぶりの夜

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