錦洋

一度だけの輝きでしたが記憶に残る、 20歳の錦洋が技能賞





昭和43年九州場所、貴ノ花が 当時の最年少記録の18歳8ヶ月で入幕します。そして貴ノ花と同い年、19歳の錦洋が4場所おくれで入幕しました。本名の川崎で十両優勝しての入幕、新しい四股名「錦洋」は格好良い四股名だなあと思った記憶があります。

176cm・148kgの中アンコ型、おっつけて押していく正攻法の相撲、両差しになる巧さもありました。何よりその童顔が、変化や引き技が少ない取口に似合っていました。真面目なお相撲さん、そのものでした。

昭和45年の春場所、20歳の錦洋は技能賞を獲得します。この場所は大鵬・北の富士・玉の海の3横綱が、3人で40勝5敗という抜群の成績を上げた場所です。錦洋は前頭4枚目で9勝6敗、前半は上位対戦がなく、勝ち込んだ後半に横綱玉の海・大関琴桜に敗れますが、その善戦が認められての受賞でした。

当時の技能賞は、業師の藤ノ川・栃東が常連。他にも若浪・陸奥嵐・二子岳などと、受賞者には個性的な曲者が多かった時代です。千秋楽、錦洋の技能賞が決まった時のアナウンサーの「正攻法の力士としては非常に珍しい、技能賞の受賞です」という言葉が妙に耳に残っています。

20歳の童顔の力士。真面目一筋の押し相撲。アナウンサーの声にも、何か温かみのようなものを感じました。しかしその後、糖尿病の影響もあって力が発揮できず、翌場所の前頭筆頭が最高位となってしまいます。この技能賞も最初で最後の三賞でした。

錦洋は鹿児島出身。井筒部屋で由緒ある、やはり鹿児島出身で大正時代の関脇だった錦洋の四股名を受け継いだものです。故郷に錦を飾る、童顔で真面目な雰囲気の錦洋には、本当にピッタリの四股名でした。

一度十両に落ちた錦洋は、四股名を本名の川崎に戻します。同郷の元鶴ヶ嶺の君ヶ浜が部屋の後継問題で井筒から独立、錦洋は君ヶ浜とともに井筒部屋を離れます。そのためか再入幕を果たした時、井筒部屋ゆかりの錦洋を名乗らず、(名乗れず?)四股名は大峩となりました。

高く険しい山を意味する大峩という四股名は、故郷への想いを感じさせる錦洋という四股名とはイメージがかなり違いました。27歳の若さで引退した錦洋が、大峩という四股名で力士名鑑に載っているのに、少しばかりの違和感と寂しさを覚えます。病気のため、輝いたのは一場所でしたが、今も記憶に残る錦洋です。




力士名鑑 : 錦洋

砂かぶりの夜

2件のコメント

  1. 錦洋の現役時代、私は朝登とよく混同していました。
    体型や相撲っぷりが似ていること、幕内下位から十両に低迷していたことがその理由です。
    あと引退後「それは秘密です」に出演したのを覚えています。
    糖尿病の悪化で視力を失い鍼灸の学校に通っていた川崎さんは学生服姿で登場、藤島親方になっていた貴ノ花と対面します。
    「おお川崎、元気か」と近付く藤島に、川崎さんが涙を流して抱きつくシーンは忘れません。
    桂小金治さんの十八番、涙のご対面でした。

  2. ただしさんへ
    コメント、ありがとうございます。
    懐かしいお話、感慨深く読ませていただきました。短い期間でしたが、錦洋の活躍は忘れられません。当時の日本と、力士を目指した若者の物語を体現したような力士でした。何か、古き良き時代を感じさせる力士の代表という気がします。

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