スタン・ハンセンは外国人プロレスラー最高のスーパースターでした。金曜夜8:00のゴールデンタイムでプロレス放送が、視聴率20%を超えていた時代です。
ハンセンの名勝負ナンバーワンは昭和56年9月23日のアンドレ・ザ・ ジャイアントとの一騎打ち。ハンセンはこの試合でスーパースターの地位を確立しました。ラッシャー木村の、あの「こんばんわ事件」が起こった日として、プロレスファンにとっては忘れられない大会でもあります。
昭和56年は大相撲ファンにとっても、記憶に鮮明に残った年です。初場所に関脇で初優勝した千代の富士が一気に横綱にまで駆け上がり、まさにスーパースターとなった一年でした。
昭和50年に入幕した千代の富士は、ケガで番付が上下します。この頃プロレスブームが盛り上がり始め、昭和53年に大ブレイクした藤波辰巳(現:辰爾)はアントニオ猪木の後継者といわれ、その鍛え抜かれた筋肉美とスピード感に溢れた試合が注目を浴びます。写真は、脱臼を繰り返していた若き日の千代の富士。
藤波の筋肉美とそのスピードを見て、大相撲とプロレスの掛け持ちファンで「千代の富士も凄いぞ」と思った人は多いでしょう。身長はほぼ同じ、体重では上回り、筋肉美とスピードも共通点。
事実、プロレス誌でスタン・ハンセンと対談した千代の富士は、当時プロレスからの誘いがあったことを述懐しています。藤波よりも2歳下で、当時のスーパースターだったタイガーマスクよりも2歳上。100キロに満たない藤波・タイガーに比べれば、千代の富士がはるかに力強く、絶好の素材だったことは間違いありません。力士出身のプロレスの父、力道山以上といっても過言ではなかったでしょう。
アメリカンフットボール出身で、瞬発力を生かした技を得意としていたハンセンは、大相撲の立合いの凄さを理解し、自分より大きな体の力士のぶちかましを受け止める千代の富士はあこがれの人でした。瞬発力が自慢のハンセンが、千代の富士の瞬発力に恐れにも似た感情を持っていたのです。
千代の富士との対談はハンセンが熱望して実現、「あなたがプロレスラーにならなくて本当に良かったよ」というハンセンの言葉がお世辞では無かったのは、いうまでもありません。
・力士名鑑:千代の富士