玉の海

玉の海 ふたたび、玉の海 の相撲にはサンクチュアリを感じます





玉の海については以前に相当数のブログを書いたわけですが、以前のブログというのは幾多の記事の中に埋もれてしまうものですので、同じような内容ですが、この「大相撲になりました!最強の力士」でも書くことにします。

最強の力士を考えるときに、玉の海の四股名が出ることが極めて少ないことは、通算成績がまったく物足りないということで当然かもしれません。ならば分かりやすく、数字で玉の海の凄かった部分を記しましょう。

昭和45年秋場所から昭和46年名古屋場所までの6場所、つまり生前最後の場所をのぞいた死の直前の6場所で、玉の海は84勝6敗の成績を残しています。6敗の内訳は北の富士に2敗、大鵬に2敗、大関の清國と前の山に1敗ずつ。

6場所を通して金星はおろか、関脇以下に一つも星を落としていません。これは全盛期の白鵬でも為し得なかった記録です。そしてこれからも同様の記録は無いであろうと推測できるほどの、絶後の記録だと思います。

朝青龍の全盛期、平成17年度の6場所の成績も同様に84勝6敗でした。一人横綱のこの期間に、ライバルの魁皇が3場所で途中休場、もう一人のライバル栃東は年間で54勝25敗11休。

年間の2位は、この年に大関に昇進する琴欧洲が59勝。金星配給は2個、小結を一場所だけ経験する普天王の白星も、実質は金星と言えそうです。朝青龍が圧倒的な強さを感じさせた時代でしたが、振り返ると、こんな感じでした。

もちろん、84勝で年間完全制覇の快挙を朝青龍は達成するわけです。対して玉の海は、84勝で優勝はこの期間に4回。北の富士と大鵬が1回ずつ優勝、大関の大麒麟が年間63勝、清國が61勝。だから何?、というかストレートに数字を並べただけであります。

話はそれますが、玉の海を語った記事で印象に残っているのは、「勝負に淡白なのが欠点」というものでした。「勝負に淡白」というのは、当時小学生だった私には具体的には理解しにくいものです。

それは、勝つためだけの相撲をとらなかったということでしょうか。前回のブログでも書きましたが、勝つために小さな相撲に変えることもなく、大きな歯切れの良い相撲をとり、勝つために無理に体を大きくすることもしなかった、というのにも関連することかもしれません。

実は朝青龍を最初に見たとき、玉の海のようになる可能性を、その動きと体型から期待したものでした。しかし常に真正面から組む玉の海に対して、朝青龍は常に自分有利の方へ、ズレて組むことを得意としました。

皮肉でもなく、勝つための相撲の、朝青龍は最高の型を持っていたと思います。相手の力を封じる型に持っていく、運動神経とスピード。逆に玉の海は、北の富士曰く「彼とは思いっ切り相撲がとれましたね」

何か変な文章になってますが、私は朝青龍も好きですし、強い横綱でした。あの立派な体で、鷲羽山のような相撲をとりました。ですから強い弱いの話ではありません。ただ朝青龍は、玉の海と比較する力士ではなかっただけのことです。

前述した「勝負に淡白なのが欠点」という言葉は、「しかし、それが人間的な魅力になっていた」という言葉で結ばれています。これには、深い意味合いを感じます。

力士の体重の話になれば、「力士は勝つために必死なのだ」という言い回しの批判の意見が出てきます。そんなときに、「玉の海の勝負への淡白さ」が頭をよぎります。もうこれは、感覚の世界のことですが。

玉の海 大場政夫

同時代を生きた若い王者、玉の海と大場政夫。玉の海の四つ身や吊り出しの美しさと、大場政夫の逆転KOの美しさ。その美しさには、勝ち負けを超越した聖域「サンクチュアリ」を感じます。

大相撲力士名鑑 : 玉の海

 

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砂かぶりの夜

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