優しい顔で細かった 三杉磯 は頑固者という感じだったが、アナウンサーにも見えた





大相撲5月場所5日目、場所後に定年を迎える元前頭三杉磯の峰崎親方が向正面の解説だった。久しぶりに見る三杉磯は、同じ定年でも定年を迎えたNHKのアナウンサーのように見えた。

解説は鋭かった。「ここでカラ足を踏みましたね」と、炎鵬が足首を痛めた瞬間を言い得たり、土俵を回り込むスペシャリストの千代丸の、足が出たのも把握していたみたいだった。「ボォ~ッとじゃないけど、凝視しないように見る」って、これは説得力がある。

私は学生時代にバレーボールでセッターをしていたから、ボールを見ながら味方の三人のスパイカーを同時に見るのに、すべてを凝視しない方が動きが分かる、っていうのがよく分かる。

北の湖と三重ノ海から金星を獲得した昭和54年秋場所の映像が流れていたが、私は19歳で、月刊大相撲からファッション雑誌のポパイに愛読書が変わったころだ。それでも、もちろん三杉磯は覚えている。細かったというのが一番、二番目の記憶は優しそうな顔。

しかし解説を聞いていると、かなり厳しい面を持っているという印象を受けた。まぁ、厳しい面を持ってないと、あの細さで35場所も幕内力士を勤められないだろう。ソフトな外見に反して、頑固者の雰囲気が漂っていた。

豊昇龍に若隆景、そして翔猿といった、小さい力士に対しては思い入れのある解説をしていた。自身も細い、本当に「昭和の力士」という体付きだった。そして締めの言葉は、「四股をもっと踏まなきゃ」みたいなことを言ってたな。

叩き上げの力士、と何度も口にしていた。そして、叩き上げの力士が好きだとも言っていた。三杉磯も昭和46年に、中学校在学中に入門している。中学生力士はダメってなったのが、確か昭和47年だから、ギリギリセーフ。昭和46年は琴風も中学生力士になっている。

ところで、若三杉の四股名で幕内優勝をしている元関脇大豪は、昭和33年初場所に三杉磯と名乗っていた。それも一場所だけ。襲名が早過ぎたって、ウィキペディアにあった。ということは、今日の三杉磯は三代目だったわけだ。復活してほしい、キレイな四股名だ。

大相撲力士名鑑




砂かぶりの夜

2件のコメント

  1. 「中学生力士」で現在協会に残っているのは尾車(琴風)、湊川(大徹)と峰崎親方の3人だけか。「無理ヘンに拳骨」が罷り通った最後の世代の気骨が感じられた。
    「カラ足を踏む」という表現を久しぶりに聞いた。懐かしい、というと足首を痛めた炎鵬に怒られるか。宇良に右肘も極められているし、休場したほうがいいのではないか。
    それはともかく、三杉磯も「東洋」の四股名を名乗っていたことがある。大ノ海の花籠部屋では昭和30年代に活躍した若ノ海も「荒岩亀之助」を一時名乗っていた。「若三杉」も、もう誰も四股名に使わないのだろうか。クラシックな四股名が埋もれていくのは勿体ないなあ、と思うが、若い力士は嫌がるか。

  2. shin2さんへ
    コメント、ありがとうございます。
    言うまでもなく、磯、杉、洋、海、岩、クラシックな四股名は自然のものを表していて、柔らかで美しいですね。今は難しい漢字を使いすぎると思います。やっぱりキレイな四股名は、引き継いでほしいです。個人的には琴櫻、これは琴ノ若が大関以上にならなければ無理ですね。琴勝峰が大関以上になったら琴櫻でも、良いような気が~、やっぱりダメか。

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