栃ノ海

原点に戻って昭和の力士のコラム、まずは栃ノ海、小兵横綱は巧いというより強かった





あっという間の4月だった、ような気がする。前置きも無しだが、大相撲は過去、様々な時代を経てきた。大きな出来事は、やはり第2次世界大戦。そういう歴史を鑑みれば、本場所の中止は致し方ない。大相撲は、その公共性によって今日がある、という部分が有るから。私は相撲が好きなだけだが。

何か・・・最近の土俵、みたいなことを書く気が起こらない。まぁ、こういう時は原点に戻ろう。元々が、大相撲に夢中になった、昭和40年~49年ぐらいに活躍した力士についてコラムを書くことが、このブログの趣旨だった。始めたころのコラムは、全部そうだ。

ということでDVDやらYouTubeなどを見て、真っ先に「おぉ」と思ったのは栃ノ海。私が記憶に残る昭和40年には、ケガで力を落としていた横綱。当時でも27歳だったから、ケガは26歳の時か。全盛期の相撲は、記録の中でしか見たことが無い。

柏鵬時代で、他にも豊山や大豪など上位陣が大型化する中で、際立った小兵の横綱。そして相撲は徹底した正攻法。正攻法の技巧派、というべきか。とにかく、前捌きが巧い。巧いというか、おっつけが強いから、前捌きで負けない。そのおっつけも、下半身の強さでおっつける、という感じ。

そして顔の位置。前廻しを引いての攻めが巧い、という書き方は違う。常にアゴが締まり、厳しい、本当に厳しい攻め。その結果として、前廻しを引いての攻めが巧い、というか巧いというよりも強い。突き押しや、いなしも巧かった、というより、やっぱり強かった。

あの、どこから見ても厳しそうな佐田の山が「あんな激しい気性の人はいない」と言っていた栃ノ海。栃光と佐田の山との稽古は伝説的で、その後に匹敵するのは千代の富士と保志のぶつかり稽古、貴ノ花の二子山部屋の待った無しの三番稽古か。北の富士が復活するきっかけとなる、昭和44年の夏巡業もついでに追加。

今は体が接触する稽古は出来ないだろうから、四股にテッポウ。栃ノ海は177㎝で110㎏といっても、その体は迫力があった。雰囲気としては日馬富士が近い。この時期力士たちは、栃ノ海のような迫力のある体を作ってほしいと思う、今日この頃であった。

大相撲力士名鑑 : 栃ノ海




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