琴櫻 土俵入り

「長谷川なんか、よそ行きよったもんね」って、笑いごとじゃないぞ 琴櫻





猛牛」「ぶちかましキング」、琴櫻はその四股名の美しさが印象的で、字が持つイメージ、音の響き、相撲字で書かれたときの美しさ、本当に良い四股名だと思いました。

骨太で重心が低く安定感があり、上半身の筋肉は大きな岩のように発達し、立合いのぶちかましは凄まじい迫力でした。柔道出身のクセが出ないように押し相撲に徹しますが、四つになってからの豪快な吊りも得意としました。

柏・鵬時代、北・玉時代からプリンス貴ノ花登場まで常に悪役のイメージで、特に「そこまでしなくても」と思えるほどの強烈なノド輪攻めは恐いぐらいでした。 しかし性格は誠実そのもので、先輩力士にノド輪で荒っぽい勝ち方を したときは支度部屋へ挨拶に行っていたということです。

ノド輪攻めのときなどはまさに鬼の形相でしたが、それも精一杯の力を振り絞る誠実さの表れだったのでしょう。その裏返し、真面目すぎて考え込んで負けることも多く遠回りしましたが、それでも昭和48年の春に桜は満開、32歳で横綱に昇進します。

その強烈なぶちかましを、稽古相手は嫌がっていました。一門の横綱大鵬も胸を出しましたが、特別に可愛がっていたのは出羽海部屋の横綱佐田の山、一門を超えて積極的に胸を出し、琴櫻を鍛えました。(写真は佐田の山ではございません)

琴櫻

長谷川がよその部屋に出稽古に行っていたと、後日琴櫻は笑い話として語っていますが、実は笑い事ではありませんでした。昭和34年初場所に18歳で初土俵を踏んだ琴櫻よりも、昭和35年春場所に15歳で初土俵の長谷川の方が飛び切りの有望力士、当時新興部屋だった佐渡ヶ嶽部屋の期待の星でした。

長谷川は昭和38年初場所に18歳5ヶ月で十両に昇進と順風満帆、しかし翌春場所の場所前、琴櫻との稽古で左足を骨折します。再び十両に戻るのは1年以上経った翌年の夏場所でした。

琴櫻はぶちかましも凄いのですが、稽古相手を稽古場の羽目板まで叩きつけるほどに吹っ飛ばしました。それで 「長谷川なんか、よそに行きよった」、となったわけです。

たしかに長谷川はケガをしましたが、これはあくまでもアクシデント。実際に 「よそに行きよったもんね」 は事実であっても、琴櫻と長谷川が不仲だったという事実はまったくありません。

琴櫻 長谷川

発表されたばかりの番付をニコニコ笑いながら、二人並んで眺めている昭和40年代前半の琴櫻と長谷川。当時はともに大関候補と呼ばれた、良きライバルでした。

真面目一筋、親方として多くの関取を育てたのはご存じのとおりです。もう一つ、琴櫻という美しい四股名が復活することを期待しています。




力士名鑑 : 琴櫻

 

2件のコメント

  1. 昭和47年春場所、関脇長谷川は12勝3敗で優勝したが、同じ場所の十二日目の前の山vs琴櫻戦が無気力相撲の疑いをかけられた煽りを受けて、大関昇進を逃した。
    長谷川のウィキペディアによると、
    >>師匠の11代佐渡ヶ嶽(元小結、初代琴錦)の存命中に佐渡ヶ嶽部屋の後継者に指名されていたが、その11代佐渡ヶ嶽が1974年(昭和49年)7月場所中に急逝した
    >>11代佐渡ヶ嶽の急逝直前に現役を引退していた横綱琴櫻(独立して白玉部屋を興す予定だった)が急遽部屋を継承することになり、長谷川の佐渡ヶ嶽後継話は消滅する形となってしまった。
    とにかく彼の相撲人生は、いつも兄弟子の琴櫻が邪魔をしている。でも独立して部屋を興すこともなく、忠実に佐渡ヶ嶽部屋の部屋付き親方で定年を迎えた。
    北の富士との対戦の際、仕切りでの睨み合いで客席が湧いていた記憶がある。北の富士氏に負けないぐらい、立ち居振る舞いもスマートだった。お元気ならNHKの解説者にお迎えしたいとも思うが、固辞されそうな気がする。

  2. shin2さんへ
    コメント、ありがとうございます。
    「最強の関脇」、長谷川は多くの記憶を残してくれた名力士でした。北の富士との因縁もありましたね。取的時代と大関で不調時代、速攻を封じられると大苦戦の北の富士がいました。その内容は、このブログを始めた頃の2月に書いております。そのブログも日付を更新して、タイヘイお勧めコラムにしますので、宜しかったらお読みください。長谷川の解説も懐かしいですね。大相撲ダイジェスト時代ですね。そう言えば、長谷川定年の場所で、正面北の富士と向正面長谷川が実現して、うれしそうでもあり、照れくさそうでもありましたね。

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