蔵間

「善戦マン」、蔵間の戦いは最後まで真っ向勝負でした





蔵間ほど大関を期待された力士はいないのではないか、と言っていいくらいの人気力士だった記憶が有ります。大関候補とはいえ、関脇在位1場所なのに。

蔵間が若手力士として注目された時代には、歴史的な花形力士の貴ノ花と、貴ノ花と人気を二分した二代目若乃花がいました。それでも、蔵間は二人に劣らない人気力士でした。

蔵間の「善戦マン」のニックネームには、188cm・136kgの恵まれた体格なのに攻めが遅いことへの、じれったい想いが少しだけ含まれていました。

蔵間 善戦マン

新入幕の昭和51年名古屋の頃から数年間は、1歳年下の横綱北の湖のまさに全盛時代、驚異的に強かったときに、蔵間は本当に毎回善戦します。それも常に左四つがっぷりで、真っ向から攻め合いました。

北の湖には一度も勝てずに終わったのですが、しかし一番強い頃の北の湖と手に汗握る攻防を、何度も見せてくれた蔵間。蔵間が常に大声援を受けていた理由は、そのイケメン振りだけではなく相撲内容にあったのです。

蔵間ー北の湖は、「大相撲になりました」というアナウンサーの絶叫を、何回も大相撲ファンに聞かせてくれました。北の湖が最も悪役だった時代の、美男の人気力士。もう少し胴長短足だったなら、大関も実現したかもしれません。

攻めは正直過ぎましたが、勇敢な攻めでした。そして現在の土俵に、こんな力士がいてほしい、と思わせる力士でした。横綱相手に、真っ向から組んでいく・・・。

引退後のスポーツコメンテイター振りは、弁舌の爽やかさに加えユーモアもあり、相変わらずの二枚目振りと相まって、衰えない人気。本当の実力を兼ね備えたコメンテイターとして、そして「善戦マン」を超えて、メディアの世界でついに大関クラスになった、その全盛期での早過ぎる死。

蔵間で記憶の残るのは、その土俵際での粘りでした。腰は柔らかい方では無く、むしろ残り腰がある力士ではありませんでしたが、懸命に土俵際で粘り、大歓声を浴びていた姿が印象に残っています。最後まで真っ向勝負をつらぬいた、本物の「善戦マン」でした。





力士名鑑 : 蔵間

砂かぶりの夜

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