北葉山

打っちゃりを警戒されると反対側に打っちゃった、玄人受けした 北葉山





173cm・119kgの体で大関を張った北葉山は昭和41年の夏場所で引退しています。最後の6場所中4場所で負け越し、勝ち越した2場所も8勝7敗。私の記憶に、強かった北葉山のイメージは残っていません。

幼少の目には、老け顔(失礼)で円らな瞳と天然パーマのもみあげ、少しオバサンっぽい(これも失礼)風貌で強そうには見えませんでした。

体が小さくて大関を張ったというのは、50年以上も昔のことだからでは片付きません。当時の王者大鵬は、白鵬と同じぐらいの体躯ですし、柏戸や豊山もほぼ同サイズ。当時の幕内最低身長力士の海乃山で172cm、体重は120kgありましたから、北葉山は小兵中の小兵力士でした。

北葉山の得意技は打っちゃり。もちろん、逆転技だけで通用するわけはありません。強い寄りと吊りがあって、その引き付け合いの攻防のすえに打っちゃりがあったわけです。

大型の柏鵬に対して前ミツを引いて頭をつけますが、出し投げで崩すような攻めではなく、やはり吊り寄りで攻める相撲。小兵力士らしくない、正攻法の堂々とした大関相撲を取っていました。

根性の大関と呼ばれた北葉山に対して、同時代に闘魂の横綱と呼ばれたのは佐田の山。この両者が優勝を競った相撲は土俵際での激しい攻防の連続でした。昭和38年名古屋場所、北葉山優勝の場所です。私は3歳、後にDVDで見て知る北葉山の強さでした。

ところで、この優勝の3年前、昭和35年に名横綱栃錦が引退したときの新聞のコラムに、こんなクダリがありました。「北葉山の横綱にはまだ間があるし、大鵬は海のものとも山のものとも分からない」

昭和35年当時、まだ関脇だった北葉山は小兵ながら横綱の期待を掛けられていたわけです。このコラムを書いた記者が、どれほど大相撲に詳しかったかは分かりません。しかし当時は栃若時代、栃錦・若乃花ともに大きい力士ではありませんでしたので、北葉山が栃・若の後継にふさわしいと思われていたのかもしれません。

昭和39年にも2場所連続で12勝3敗と健闘しますが、綱には惜しくも届かず。しかし打っちゃりが少なくなった現在の土俵で北葉山タイプの力士には、もっと出てきてほしいですね。相手に打っちゃりを警戒されると一転、反対側に打っちゃるという玄人受けする相撲。今、登場すれば大喝采間違い無しですね。




力士名鑑 : 北葉山

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