新入幕の北の富士が13勝2敗の好成績を上げた昭和39年の初場所、入幕2場所目の清國は14勝1敗、それも初日から14個の勝ち星を並べ、千秋楽まで横綱大鵬と優勝を争います。
当時は下位の力士がいくら勝ち込んでも、役力士と割を組まれることは少なく、やっと千秋楽に東関脇の大豪に当たり全勝は逃しましたが、全勝優勝の大鵬と清國は同期生、かたや横綱とこなた前頭13枚目の優勝決定戦となるところでした。
このとき22歳の清國と21歳の北の富士は、柏鵬全盛時代の次期大関候補として玉の海(当時玉乃島)・琴桜・大豪・明武谷・長谷川・若見山・大麒麟(当時麒麟児)といった精鋭達とのライバルレースの主役となりました。
武蔵丸ー貴ノ浪に破られるまで、北の富士ー清國は最多対戦の取組として長く記録に残っていました。対戦成績こそ北の富士の37勝15敗とかなり差は開いていましたが、同時期に出世を競い合った間違いなくライバルだったと言えるでしょう。
清國といえば、土俵上の所作に気品が溢れていたことで有名です。穏やかで静寂ささえ感じる塩まき。見事に腰を割った仕切りから、相手の目を見ながら本当にゆっくりと、呼吸を合わせるように手を下ろしました。体の内側から、そっと下ろすその手の動きは優雅といえるほどでした。
その美しい仕切りとともに清國は、美男力士としても知られていました。純日本的で切れ長の目に鼻筋の通った色白の美男大関でした。
大関レースは3年近く北の富士に遅れることになりましたが、新大関で迎えた昭和44年名古屋場所、千秋楽で同期生の大鵬を破って優勝決定戦に進出。決定戦で藤ノ川を破り優勝します。この場所で柏戸がついに引退。8年近く続いた柏鵬時代は終止符を打ち、大鵬の一人横綱、清國の横綱挑戦に期待が集まりました。
初土俵からちょうど13年、はるか先を走っていた同期の大鵬の背中が手の届くところまで来たのです。大鵬、そして北の富士・玉の海の常に後塵を拝してきた清國に最大のチャンスが訪れた翌秋場所の2日目、麒麟児戦で首を痛め、最大のチャンスを逃します。
この場所から奮起した北の富士と玉の海は、3場所後に横綱へ昇進します。北・玉には弱かったものの、大関昇進後2年間はほぼ毎場所中盤までは全勝や悪くても2敗、地味ながらも場所を盛り上げ、それが後年美しい仕切りの所作とともに、名大関と呼ばれる所以になったのでしょう。右おっつけを中心に堅実でキレイな相撲を取りました。