大関大麒麟は柏鵬時代から北玉時代に掛けて、「横綱になれる大関」と言われました。柔らかな足腰と低い重心を利した相撲と、その独特の仕切りでも有名でした。かつての高見盛のようなパフォーマンスは、昭和40年代頃はあまり見られませんでしたが、個性的な仕切りといえば大麒麟が一番に上げられるでしょう。
大麒麟といえば柔軟な体が特徴ですが、その柔らかさをフルに生かし、塩をまいてから必要以上に左右の肩甲骨を揺さぶり、まるで肩の凝りをほぐしているような仕草。手を下ろすときも、亀が甲羅に引っ込むように異常に首を縮め、上目づかいのしかめっ面で相手をにらみつけ、仕切りなおしで再度肩を奇妙に揺さぶる、この繰り返しです。
いかにも曲者という雰囲気を持っていましたが、もともと大麒麟は曲者として世に出たといったところがありました。平幕での最初の上位対戦で、いきなり横綱柏戸から金星を上げます。昭和41年夏場所のことです。電車道の寄りが身上の柏戸にとって、柔らかな体で吊りと打っちゃりを得意としていた大麒麟(当時麒麟児)は嫌な相手だったでしょう。
柏戸は翌場所も連敗、一度五分に戻すもさらに3連敗、対大麒麟戦を通算でも五分に戻せませんでした。土俵際あと一歩まで追い詰めて打っちゃられての逆転負けに、柏戸の悔しそうな表情と大麒麟のふてぶてしい面構えが好対照でした。大麒麟はライバル大鵬の弟弟子で、柏戸は負けたくない相手に負けていたわけです。
大関レースではライバル琴桜・清國に先を越され、さらに後から追いかけてきた前の山にも一場所早く大関に昇進され、それが面構えや動作のふてぶてしさとは真逆の、度胸の無さに原因があったとも言われ、外見では分からないものだと感じました。
柏戸と大麒麟は引退後、ともに審判委員を務めました。大麒麟に逆転され悔しそうにしていた、ちょっと人の良さそうな感じだった元柏戸の鏡山審判は、立合いの待ったに恐い顔で怒鳴りつける頑固な親方。
対して不適な表情で勝ち名乗りを受けていた元大麒麟の押尾川審判は、「只今の勝負の説明」のマイクパフォーマンスも噛み噛みで、最後まで慣れることが出来ませんでした。見た目と性格は逆でも、現役時代のふてぶてしい曲者のイメージは強烈だった北玉時代の名脇役、大関大麒麟でした。