隆の里

稀勢の里 、師匠 隆の里 の立合いが出来れば稀勢の里時代です





隆の里と千代の富士は昭和58年名古屋場所から昭和59年初場所まで、4場所連続で千秋楽相星決戦を行います。期間が短かったため時代として語られることはありませんが、これほど濃密な横綱決戦は例を見ないでしょう。

最も強烈な印象が残っているのは昭和58年秋場所の全勝対決、新横綱の隆の里が全勝優勝を果たした場所です。優勝回数は4回の隆の里ですが、一場所限定の強さの記憶でいえば、この場所の隆の里ほど凄まじい強さを大相撲ファンの脳裏に刻み付けた横綱はいないのではないかと思わせるものでした。

表現する言葉を失うほどの、そんな圧倒的な「力」を見せつけられました。それにしても182cm・159kgの体は、特に上半身の発達振りは空前絶後。隆の里の怪力を利した右四つの安定した相撲は次元の違う強さでした。

上半身の盛り上がりは目を見張るものでしたが、注目すべきは下半身の備え、特に充分に腰が割れた立合いが印象に残っています。隆の里は力士としては体が固く腰高だとよく指摘されましたが、その体に合った小さくて鋭いそして安定感のある立合いでした。自分の体に、もっとも合った立合いを完成させたと思います。

若手力士時代、稀勢の里が早めに両手をついてお尻を少し高く上げる立合いをしていたころ、参考にすべきは師匠の隆の里の立合いだと以前のブログで何度か書いたことがありました。やはり体型としては腰高な方の、稀勢の里の手本は師匠だと。

今かなり近いものにはなってきていますが、まだ完ぺきな立合いではありません。もう少し腰が割れて、手をほんのちょっと手前につけるようになれば隆の里の立合いです。そうなれば、稀勢の里時代の到来となります。

さて隆の里、「ポパイ」とか「おしん横綱」と呼ばれました。「おしん横綱」に関しては、糖尿病を克服して精進と努力を重ね、30歳を過ぎての横綱昇進という意味で語られています。もちろんその通りですけど、怪力ばかりに目がいきますが取口そのものも非常に我慢強かった、本物の「おしん横綱」でした。




力士名鑑 : 隆の里

 

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