北の富士 浴衣

「北の富士 語る」で52年前の夏の記憶が蘇った、っていうか昔の記憶の方が鮮明かも





大相撲中継では、「北の富士語る」というコーナーが出来たようだ。今日は、「大関昇進」がテーマ。相撲協会の使者が当時、テレビのバラエティー番組に出て、コメディアン的な人気もあった出羽錦の田子ノ浦親方だったのには驚いた。

よく語られることのは、大関昇進直近の3場所が28勝という異例の昇進で、北の富士本人もまったく昇進するとは思わなかったというお話。

当時6歳になったばかりだった私は、幼稚園に通っていたわけだが、この話を聞くといつも不思議に感じる。昭和41年の名古屋場所の千秋楽には、今でもドキドキした記憶が残っている。

取組は関脇同士の玉の海(当時、玉乃島)、玉の海は関脇で9勝・10勝して、この場所は千秋楽までで9勝5敗。北の富士は8勝・10勝して、この場所は9勝5敗、両力士が関脇で2場所連続での10番の勝ち星を掛けた相撲となった。

2場所連続で10勝5敗だからといって、大関昇進につながるわけではなのだが、この一番の盛り上がりは今でも覚えている。相撲内容もまた、大熱戦となった。そして土俵際での投げの打ち合い。

記憶の中で、北の富士が勝ち名乗りを受けた瞬間に、大関昇進が決まったと感じた、と長年思っていたけれど、北の富士本人がこのときの昇進は想定外だったと語っているので、この50数年前の記憶は怪しいものだけど。その大熱戦だった相撲内容が、そういう記憶として残させたのかもしれない。

しかし昭和41年といえば大鵬の独走時代、2度目の6連覇の真っ最中。さらにこの年は横綱佐田の山が絶不調、栃ノ海はケガで引退間際、大関栃光はこの年の初場所で引退している。天下の出羽海一門のピンチではあった。

北の富士と玉の海への期待感というのは、半端無かったということだろう。北の富士は出羽海一門だったけど、二所ノ関一門の玉の海も翌場所に直近3場所30勝で大関昇進を果たしてる。北の富士は関脇5場所で57勝だったけど、玉の海は本当に関脇在位3場所で30勝だった。

北の富士の上手投げや外掛け、玉の海の吊り出しは華があったし、両力士ともに激しい突っ張りがあった。やっぱり人気というのか、相撲内容も大きかったのかなぁ、大関昇進に違和感を覚えなかったのは。52年前の夏の記憶だけど。

大相撲力士名鑑 : 北の富士




2件のコメント

  1. 北の富士、大関昇進時の映像が驚きだった。
    協会の使者は田子ノ浦親方(出羽錦)と、もう一人は白玉親方(大八洲)か。
    当時の北の富士の師匠の出羽海親方(出羽ノ花)が協会の仕事で不在で「師匠代行」を横綱佐田の山が務めた、というのも初めて知った。いくらなんでも当時の出羽海取締が「北の富士、大関昇進」を知らなかったわけはないと思うが、個人的には昇進に反対だったのか。
    九重部屋が独立するのは翌42年か。北の富士vs佐田の山戦は、お互い辛かっただろう。

    「北の富士語る」はいつまで続くのだろう。次回は九重独立か。

  2. shin2さんへ
    コメント、ありがとうございます。
    北の富士と言えば初優勝から横綱昇進と、千代の山が寄り添っていたイメージなので、佐田の山の大関昇進の口上は衝撃的でした。北の富士の初優勝場所のVS佐田の山の相撲は、VS玉の海と並ぶ、北の富士の名勝負でしたね。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA