どすこい研、今回うっちゃりがテーマ、これは私の長年のテーマでもあった





「どすこい研」は、うっちゃりがテーマだった。うっちゃりがなぜ減ったのか?その大きな原因が三つ上げられていた。この三つ、これは私がメルマガやブログを始めた当初、もっとも言いたかったことだった。

最近は「書いても無駄だろう」っぽい感じになって、書いていなかった。いや、やっぱダメだ。まだ丸くなってはいけない、まだ60歳だ。妥協してはダメだ、これからだ。元々が、吊り出しやうっちゃりが減って淡白な相撲が増えた、というのがメルマガを始めた理由だったわけだし。

だから、ことの良し悪しや、正しいか正しくないかが問題ではない。吊り出しや、うっちゃりをもっともっと見たいのだ。もちろん外掛けや内掛けや、内無双や外無双や、小股すくいもだけど、特には吊り出しと、うっちゃりだ。

原因その1、手付きをするようになったから。琴奨菊、言ってしまった。「王様は裸だ」と言った子供のように。手を付くと、胸ではなく頭で当たるから、四つ相撲よりも押し相撲が増えた。単純明快。

もう、手付きは止めにして、そろそろ良いんじゃないか。なぜ手を付いた方が良いのか、あるいはなぜ手を付くべきなのか、朝まで生テレビか何かで、徹底的にやった方が良い。論文でも書こうかな。

そして原因その2、近年の力士は型を重視する、これも私は今まで書いてきたものだ。書くときは、「最近の力士は攻め重視」というふうに表現してきたけど。これは安美錦の意見だった。

自分の型を重視するあまり、相撲の攻防というよりも自分の型になるための攻防になっている、とこれは私の言い方だけど。琴奨菊が安美錦に同調して、「自分も自分の型になれなかったら、すぐあきらめていた」と衝撃告白。安美錦自身は「自分には型は無かった」と語っていた。

淡白な相撲の大きな要因になっている、といって良いだろう。攻めは強くても残り腰が弱いから、あきらめがどうしても早くなってしまう。もちろん、これは押し相撲の増加、体重の増加とリンクしていると思われるが。

最後に原因その3、物言いのビデオ判定の画像の鮮明化、と審判委員の水戸泉の話だ。そう来たかと思ったが、これも実は私は何度も取り上げている。つまり鮮明じゃなかった時代、物言いの判定は攻めている方に有利になりがちだったという話。

攻めている状態ならば、死に体の基準も違うはずだし、足の甲が土俵をつく判断も違うはずだ。そしてこのタイミングを判断するのは、無茶苦茶難しいはずだ。しかしこれが画像が鮮明になると、どっちが先に出た、どっちが先についたが分かりやすくなりすぎる。

だから攻めている方の微妙な基準よりも、鮮明な画像を優先する方が楽だし、説得力がある。でもね、ここはよ~く考えてほしいところだが、肉眼で見ているときは攻めている方が有利に見えている。これって、本当は大事なことだと思う。勝ったように見えた方が勝った、これが真実に思えてくる。

一番伝えたいことが、伝わっていない気がする。たぶん伝わりにくい文章になっているから・・・文章は難しいね。それでも、やっぱり私は昭和40年代の大相撲を伝えていくというのが、一番のプライオリティーだった。しっかり、貫かなくちゃ。もっと理論的に、分かりやすく書けるように頑張ろう。

何てことを書いているうちに、明日は初日だ。白鵬は大栄翔だ。白鵬には勝ち負けよりもその取口、特に立合いに注目したい、と前回書いた。予想は、結局は立合いに張っちゃうんじゃないの。それじゃダメじゃん。

大相撲力士名鑑 : うっちゃり 琴奨菊 安美錦





砂かぶりの夜

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