青ノ里

初日前日ですが、渋めに 青ノ里と 若見山、大関候補が大挙して現れた時代の地味な大関候補でした





今のところ大相撲力士名鑑に載せている力士のコラム、この青ノ里若見山で一応、名鑑の全力士のコラムをひと通りは書いたことになります。力士も153人になり、コラムも200を超えました。もちろんこれからも、力士名鑑は増やすつもりでおりますが。

今場所は大関候補と呼べる若手力士が番付を上げておりますが、私が大相撲を見始めた頃も、大関候補がほぼ同時期に大挙して現れた時代でした。力士名鑑の中締めは、その中でも地味だった二人の力士となりました。

まずは「いぶし銀」の青ノ里。当時大関候補と呼ばれる力士は、若手では北の富士・玉の海・琴櫻・清國・若見山、そして大麒麟・長谷川。ベテランの中では明武谷と大豪、そしてギリギリで青ノ里でした。

正攻法の右の四つ相撲で、振り回すような強い上手投げが得意手。 182cm・120kgの筋肉質、今ならソップ型に入るでしょうが、当時としては平均的力士より少し引き締まっているかな、ぐらいでした。

千代の富士や日馬富士が幕内最軽量だったことを考えると、やっぱり昭和40年代の力士は筋肉質でしたね。北の富士と玉の海が大関に上がるころには、もう大関候補ではなくなっていましたが、幕内中位で渋く活躍しました。

逆に若見山はアンコ型、身長の数字よりも体重の数字の方が多いと「稽古不足だ」と言われた時代に、若見山は177㎝で176kgとギリギリでセーフ。当時の幕内最重量力士でした。

若見山

昭和39年初場所に20歳で新入幕、その場所でいきなり10勝5敗。同じく新入幕の21歳の北の富士が13勝2敗、入幕2場所目の清國が22歳で14勝1敗、大関候補の「若手三羽ガラス」と呼ばれます。

富山県出身ということで、「角聖」常陸山と梅常陸時代を築いた「梅ヶ谷」の襲名さえ期待された力士でした。右四つでじっくりとした四つ相撲で、ときに極め出しで豪快に勝つ場面もありました。

青ノ里同様に昭和41年あたりから平幕になり、ケガもあって26歳の若さで引退します。100kgあるかないかの頃の玉の海とがっぷり四つに渡り合い、疲れてしまって寄り切られた話は、以前にも貴公俊のブログの時に書いた通りです。

青ノ里も若見山も柏鵬時代の脇役としての存在でしたが、一時期でも大関候補と呼ばれたことで大相撲史にその名を残しました。ではまた、コツコツと力士名鑑はコラムとともに増やしていきます。

大相撲力士名鑑 : 青ノ里 若見山

 

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